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zoom RSS 超考察「死後の世界」 〜人は「無に還る」のか〜

<<   作成日時 : 2014/03/22 14:05   >>

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みなさんは、「死後の世界」って信じますか?
おそらく、「生まれ変わる」、「天国と地獄」、「無に還る」など様々な意見があるでしょう。
そのどれが正しいかを決めることはできませんが、僕なりの死生観を書いてみます。


仏教において生きとし生けるすべての者は、死後、生前に積み重ねた業(カルマ)に従って、六道世界のどこかに生まれ変わります。
その中には、人間の世界(人間道)はもちろん、動物の世界(畜生道)や神々の世界(天道)、罪悪を犯した者が送られる苦しみの世界(地獄道)などがあります。

キリスト教では、世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、あらゆる死者をよみがえらせて裁きを行い、永遠の生命を与えられる者と地獄に墜ちる者とに分けるとされています(参考:wikipedia「最後の審判」)。

その他にも、「死は生の延長である(中国・道教)」、「死は新たな人生へのはじまり(古代エジプト)」、「黄泉国という地下の世界(日本神話)」といった考え方があります(参考:wikipedia「死生観」)。


しかし、現代日本において多数派なのは、「無に還る」という死生観ではないでしょうか。

唯物論では、宇宙にあるのはただ空間と物質だけであり、そこで起こるすべての現象は物質どうしの相互作用によって説明されます。
人間とて例外ではなく、生命活動は原子の集合と化学反応によって記述されます。
(例えば人体を構成する元素の大半は、炭素・酸素・水素・窒素であり、「呼吸」とは、赤血球中のヘモグロビンが酸素を受け取り、体内の各組織で手放す化学反応のことです)

そして唯物論でいう「死」とは、生命活動を維持していた化学反応の停止と身体を構成していた原子の散逸であり、この現象をもって、「無に還る」と評しています。
そこには、「死後の世界」や「魂」、「超越者」といったものが介在する余地はありません。

科学合理主義を重んずる現代日本において、唯物論的死生観が多くの人に受け入れられているのは自然なことのように思います。
実際、僕もかつては「死」を「無に還る」ことと解釈していました。


ところが、そこには一つの落とし穴があります。

唯物論的死生観において「死後の世界」や「魂」が認められていないのは、その存在が証明されていないからです。
誰も「死後の世界」から行って帰ってくることはできないし、「魂」を見ることもできないので、その存在は永遠に証明されないかもしれません。

しかし、「存在が証明できないこと」と「存在しないこと」はイコールではありません。

例えば、宇宙人の存在は証明されていませんが、存在しないと言い切れる人はいません。
仮に不存在を証明するとしたら、ミクロからマクロまであらゆるスケールで宇宙全体をくまなく探し回らねばならないからです。
それは原理的に不可能なことです。

科学の世界でも、かつては空想の産物でしかなかった「原子」が今や実験と観測により、当然のように存在しています。
さらにミクロの領域に目を向ければ、「超ひも理論(物質の最小単位は短いひも状である)」やそこから派生する「11次元」なんていう常識では考えられない存在さえ受け入れられつつあります。

したがって「死後の世界」や「魂」も、現時点では証明できなくても、存在する可能性を否定できません。
その可能性を無視したところに、「合理的」な唯物論的死生観の「非合理性」が隠れています。


結局、「死後の世界」や「魂」の存在が証明できない以上、どのような死生観にも客観的な根拠を見出すことはできません。
そのため、様々な死生観の確からしさについて優劣を付けることはできません。
であれば、どのような死生観を採用するかは完全に個人の自由です。

ここでの提案は、「人生を豊かにする死生観を採用しよう」ということです。

その基準からすると唯物論的死生観(=「無に還る」)は必ずしも優れた考え方ではありません。
人間がただ死に、無に還る存在であるならば、生前身に付けたものはすべて失われ、罪人は裁かれず、善人は救われません。
そこは、「何をするのも無意味だ」というニヒリズムの温床となり、人生を豊かにはしてくれません。

一方で、宗教的死生観を信じる価値はここにあります。

例えば、仏教でいう六道世界を信じていれば、地獄に堕ちることを避けるため善行を積むようになるし、栄える悪人を見ても「地獄に堕ちる」と思えば、心が波立つのを防ぐことができます。
輪廻転生を信じれば、死に対する恐怖も和らぎます。

したがって「人生を豊かにする」という基準で見れば、宗教的死生観>唯物論的死生観であるというのが僕の主張です。


しかし、僕は自分の死生観を決めかねています。
なぜなら、「不存在が証明できないこと」と「存在すること」もまたイコールではないからです。
仏教徒としては六道世界の輪廻転生を信じたいところですが、その考えは合理主義に照らすとあまりにシュール。

「人間道」と「畜生道」はまぁ分かります。
「天道」と「地獄道」もなんとか…。
「修羅道(終始戦い、争う世界)」や「餓鬼道(腹の膨らんだ鬼の世界)」に至っては、うーん…、という感じです。

僕はつい自分の頭に頼ってしまう人間なので、いっそ理性を捨て去って、何かを盲信できれば楽なのになぁ、と思うことがたまにあります。
(理性は完全ではないし、超越者は信じられない。それがニーチェの言う「神は死んだ」時代に生きる我々の難しさなのでしょう)


ここまで、様々な死生観には何の根拠も見い出せないことを示してきました。
それは答えのない問題(「死後の世界」など)を扱っており、個人の信仰以上の拠り所がないためです。
実は「科学」や「唯物論」も信仰に支えられている部分があり、絶対に正しいとは言い切れません。
(リンゴは今日まで地面に落ち続けてきたが、明日も地面に落ちる保証はどこにもない。)

考えてみれば、人生というのは答えのない問いとの終わりなき葛藤です。

宇宙の始まり、超越者の存在、生きている意味、幸せ、自分に見合う生き方、仕事、お金、恋愛、人間関係etc。

そうした問いを裁く基準として僕は、「人生を豊かにするかどうか」を採用しています。
誰に聞いても答えが返ってこない問題をわざわざ卑屈に考えて、自分で自分を不幸にする必要はありません。

僕はかつて「生きる意味なんかない」と嘆いていましたが、今生きていることの大切さに気付いてからは、「生きる意味なんかなくていいじゃない」と開き直ることができました。


世間的な同調圧の強い日本では、様々な局面で固定観念に縛られ苦しい思いをすることが多いように思います。
でも、すべての固定観念には確固たる根拠などありません。
だから僕たちは、何ものにも縛られない自由な心を持っていい。

もっと多くの人がそのことに気が付いて、気楽に生きられる世の中になったらいいなぁ…。

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