普通じゃなくていいんじゃない?

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zoom RSS イデアの影

<<   作成日時 : 2016/02/28 15:56   >>

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「自然界のすべての現象は永遠の型、つまりイデアのただの影だ。美しきイデア界から来た我々の魂は、望郷の念、すなわちエロスを忘れずにはいられない」

 寝室のベッドに寝転びながら、哲学の入門書をパラパラめくっていた。今読んでいたのは、プラトンの項目だ。その本は、もうずいぶん前に一度読んでいたし、特に目新しい発見があるわけでもない。ただ、ざわざわと揺れて所在ない心を、ほんの少しでも落ち着けることができれば、と思っただけだ。
 君がこの家を出たのは、もう三ヶ月前のことだ。きっかけはほんの些細な、僕が君の料理にケチを付けたことによる口論、だったが、それまで大小様々なすれ違いがあった。僕はあまりに仕事が忙しかったし、君は自分で孤独を癒す術を知らなかった。今となってはすべてが見苦しい言い訳に過ぎない。これ以上、考えても仕方のないことだ。

 今日は珍しく、特に予定のない休日だ。心も身体も疲れていたが、つい、いつもの習慣で早く目覚めてしまう。読書でもすれば二度寝できるかと思ったが、当てが外れた。身体は重いが起きるとしよう。
 一階のダイニング・キッチンに降りて、水を入れたケトルを火にかける。最近じゃ、僕も上手にコーヒーを入れられる。まだ君には敵わないけど。
 僕は朝が好きだった。朝は、忙しい日々の中でも、君と必ず顔を合わせることができたから。元々朝食は、僕がご飯派で、君がパン派だった。でも、君がいつもパンを出すものだから、そのうち僕も、パンが好きになっていた。

  チンッ!

 そう、こんな感じで小気味いい鐘の音がして、トーストが焼き上がる。その頃には、ダイニングいっぱいに、優しい小麦の香りが広がっている。そして君は、キッチンで半熟の目玉焼きを作りながら、バターを塗ったトーストを僕の前に運んでくる。
「おはよう。少しは目が覚めた?」
 君が穏やかに問いかけても、寝起きの悪い僕は、たいてい「ふぁぁ」と気の抜けた返事を返す。僕がボサボサの髪と半開きの目で見ると、君はニコニコしている。動くたび、長い髪がサラサラ揺れて、シャンプーの淡い香りが鼻をくすぐった。
 トーストに半熟の目玉焼きを乗せてほおばる。サクッと香ばしいトーストの歯ごたえととろける卵の舌触り。ほどよく振られた塩・胡椒がアクセントだ。その後に来る心地いい余韻をミルクで流す。洗いたての世界は、また次の一口を欲する。

「あなた、さっきとはまるで別人みたい!」
 スーツを着て、身支度した僕を見ると、君はそうやって茶化す。でも君だって、化粧して綺麗な服を着たら、別人みたいに素敵だ。
「あなた、今日も遅くなる?」
「さぁ、行ってみないと分からないな。」
「そっか。そうだよね…。」
 一瞬表情が曇って、君はまた笑顔に戻る。この時、君が何を考えているかは察しが付く。でも僕にも色んな事情があって、その望みは必ずしも叶えられない。
「今日も頑張ってね。愛してる。」
 そう言って君は背を伸ばし、僕とキスをする。君の唇はみずみずしくて、諸々の都合が付くなら、いつまでも離したくないような欲求に駆られる。

  カチャカチャ、カンカン!

 キッチンで沸騰するケトルの音で我に返った。やっぱり僕は一人だ。玄関に立って、入り口の扉を眺めていたって、君は帰ってこない。胸に開いた穴は行き場を無くして、僕を飲み込んでしまうだろう。

 この家には、君の影が染みついている。二人で暮らした四年の月日が、それを現実ではないかと誤解させるほど、僕の脳に強いリアリティを叩きつける。
 プラトンは言った。我々は、イデアが落とした影の中で生きている。それはある種の満足をもたらし、いつしか我々はその生活に何の疑問も抱かなくなる。だがイデアは、そんな有象無象の影たちとは、比べ物にならないほど素晴らしいものだ。我々は、本当の世界を見る勇気を持つべきなのだ。

 今ならプラトンの言うことが少しだけ分かる。君の影は確かに美しいけど、本物とは比べるべくもない。五感と、それを越えた何かを通して、僕の魂に深い癒しを与えてくれる。ああ、僕はなんと愚かだったのだろう!
 気付いた時には、家を飛び出していた。君が待つあの場所へ。こんなに全力で走るのはいつ以来だろう。真上から差す日の光は、一切の影を落とさず、僕を照らしていた。

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