ダイブ59

五十八からの続き


   五十九

十二月二十四日
 今日はクリスマスイブだ。恋人たちは街に出て、幸せオーラを振りまきながら、まるで世界は自分たちのモノだとでも言うような顔して練り歩く。駅前は美しいクリスマスイルミネーションに彩られていた。赤青黄色の電ショクがあちこちでチカチカと主張し合い、チープなファンタジー世界を作り上げている。オレはこの広場を千佳子と手をつないで歩く。白い息を吐きながら、「寒いねー。」なんて笑い合って、時折二人でイルミネーションを見つめるんだ。家に帰ったらケーキを食べて、うんうん悩みながら選んだプレゼントを渡して、それから、それから…。
 気が付くと、駅前の広場の真ん中でボーっと突っ立っていた。右手は大切な壊れ物でも扱うように優しく握られていた。涙が一筋流れてくると、そのまま止まらくなりそうで、急いで家に帰った。愛を失った男の素敵な二十六回目のクリスマス・イブ。

十二月二十五日
 自分がこの世界からいなくなったら何が起こるだろうか。誰か悲しむ人はいるのかな。大学の奴らは、たぶん何とも思わないだろう。彼らには、オレのことなんか取るに足らないくらい重要な社会の中での役割と繋がりがある。孝ちゃんはどうだろう。今もオレに対して怒っているのかな。父さんはオレのことが嫌いだろうから、かえって喜ぶかもな。母さんは、少しくらい悲しんでくれるかな。迷惑かけてばかりのバカ息子でごめんよ。
 そして千佳子は。オレを捨ててどこかへ行ったんだ。きっとオレが死んでしまおうが、どうでもいいはずだ。でも、もう一度だけ。短い時間でもいい。やっぱり君に会いたい。できることなら、何があったのか知りたい。もし自分に悪いところがあったなら、全部直すからやり直したい。それは叶わぬ夢だけど、どうしても捨てられないんだ。

十二月二十六日
 旧ソ連の拷問方法に、ひたすら水を運ばせるというのがあったそうだ。広い体育館のようなスペースの端と端に水がめが置かれていて、拷問を受ける人は一日中バケツを使って、一方の水がめから他方の水がめに延々と水を移し続ける。一方の水がめが一杯になると、また他方の水がめに水を移す。それはむち打ちのような痛みもなく、強制労働のような辛さもなく、肉体的にも精神的にも疲弊するものではない。しかし、どんなに屈強な男でも、この拷問を受けて一週間もすると発狂してしまうそうだ。
 それがなぜかと言えば、意味がないからだ。人間は意味のない行為をそう長くは続けていられない生き物らしい。
 それは僕も同じだ。生きる意味が抜け落ちた自分が、これから先も生き続けることは苦痛でしかない。何の取り柄もない、人に迷惑ばかりかけ続ける男が、ただ自分自身の存続のためだけに仕事する。毎日毎日似たような作業を繰り返し、刻一刻と死に向けて歩み続ける。そんなことに何の意味があるんだ!
 良識のある人間とやらは訳知り顔でこう言うだろう。「生きてればそのうちいいことがある」。お前にオレの何が分かる! この人生で命を懸けてでもやり抜こうと思った仕事を遂げられなかった人間の苦悩が! 色のない世界で生きることの絶望的な虚しさが! 地獄のような生より安らかな死を。その選択をした人間をいったい誰が責めることができるだろう! 軽はずみな慰めは、正直な侮辱より罪深い。

十二月二十七日
 台所にある包丁をジッと眺めていた。もしこれで胸を刺したら、心臓から大量の血がふき出して死ねるのかな。死はいつも僕のすぐそばにいる。ちょっとした拍子にそいつは口を開けて僕を飲み込んでしまうんだ。想像すると背筋がゾッとするね。

十二月二十八日
 なんとなく決心が付かないまま。生きるともなく死ぬともなく、ただ時間だけが流れ去っていく。もうすぐ一年が終わる。さよならもっとも幸福な年。さよならもっとも悲しい年。

十二月二十九日
 もう少し前向きに考えられないものか。泥沼の中に引きづりこまれていく感覚。何か一つくらい明るい部分はないものか。光よ、光。僕の醜さ全部かき消しておくれ。でなければ、朝の訪れとともに僕の身体全部を砂に変えておくれ。

十二月三十日
 どんなに絶望していても、僕の気持ちなんか無視してまた朝は来る。世界は無常だ。どこにも愛や慈悲なんて美しいものは存在しない。
しばらく揺れていた気持ちが一つ固まった。やはり僕はこの世界でこれ以上生き続けるべきではないと分かった。心も身体もとても疲れていたから、こうして決心したことでホッとした気分だ。ここ数日少しずつ準備は進めていた。明日、今年最後の日。この世から旅立つにはちょうどいい。


―――

続き

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック