ダイブ69

六十八からの続き


   六十九

 「解雇」。父親の口から意外な言葉が出てきて高野は驚いた。真一が解雇されたのは一月初めのことだ。正確には退職勧奨を受けて真一が会社を辞めた。昨年の秋ごろ、真一の勤める電機メーカーでは三千人規模の希望退職を募集した。そのとき真一にも声が掛けられたが、真一はそれを拒否した。すると会社は真一を営業から事務に配置転換させた。そして毎日毎日朝から晩までお茶汲みと書類のコピーをするよう命じた。入社以来、営業の第一線で活躍し、優秀な成績を収めてきた真一にとって、それは耐え難い屈辱だった。(もう俺はこの会社に必要とされていない)。そう悟った真一は退職届を提出した。
 「そんなことがあったんだな。」
 「五十過ぎたおっさんが二十代の女の子にお茶の入れ方を習うのは、なかなかに辛いものがあったぞ。」
真一は自虐がちに笑った。
 「俺の両親はな、とても貧乏だった。家がボロかったから同級生に馬鹿にされたり、学校で必要なものも満足に買えないことがあった。何より悔しかったのが、大学に行けなかったことだ。俺は飛行機が好きだったから、大学で工学を勉強してエンジニアになりたかった。でも学のない両親は高い学費を払ってまで大学に行くことの意義を理解してくれなかった。俺には下に二人兄弟がいたし、それどころか両親にはねずみ講で作った借金まであった。俺には働くしか選択肢がなかった。入社してしばらくは地獄のようだったよ。上司に罵倒され、取引先に頭を下げ、俺は思った。もし家族ができたらお金のことで苦労させたくないと。結婚してからも精いっぱい働いた。人より一時間早く出勤して掃除や勉強をした。休日にも客のところに足を運んだ。そのおかげか俺は人一倍早く出世することができた。高卒の人間が『営業本部長』になったのは俺が初めてなんだぞ。」
 「すごく大変だったんだね。」
 「でも、結局会社には裏切られた。サラリーマンなんて、所詮どれだけ身を粉にして働いても、状況が変わったらすぐにポイの使い捨てだ。」
 「父さん…。」
 「お前たちには不自由させまいと思って、持てる力のすべてを仕事に捧げてきた。だが、それがいい生き方だったのかどうか、今となっては分からない。お前や母さんのことはずっとほったらかしだったからな。若い頃にはいくつか過ちもあった。今の状況も因果応報なのかもな。」
 「過ちって?」
 「男には、誰にも言えない秘密の一つや二つはあるってことだ。」
 「何それ。」
 「お前だって、二百五十万の使い道は秘密なんだろ?」
 「う、まぁ。」
 「つまり、そういうことだ。」
そう言って真一は笑った。高野もつられて笑った。父親の笑顔を見るのはいつ以来だろうか。真一が出張でよく家を空けるようになってからは、お互いの顔を見る機会すらほとんどなくなっていた。
 「会社を辞めたこと、母さんには内緒だぞ。」
その口調には、いつもの高圧的な響きは全くと言っていいほど含まれていなかった。

 家に戻ると美佐が夕食の準備を始めていた。真一と高野が帰ってきたことに気付くと、「おかえりなさい。」と明るく声を掛けた。高野はキッチンで野菜を切る美佐に呼び止められた。
 「お父さんとはいい話し合いができた?」
 「うん、まぁ話し合いというか、雑談? 色んな事を話せたよ。」
 「そう、それはよかったわね。」
 「今まで父さんとは、あまりにも話をしなさ過ぎたなって気付いた。」
 「そっか。」
「母さんもごめんね。」
 「何が?」
 「父さんに内緒でずっと仕送りしてくれたり、生命保険も解約したんでしょ。」
 「まぁね。」
 「俺、迷惑ばっかり掛けてるなって。」
 「そんなのは全部、大したことじゃないの。」
 「ねぇ、母さんはどうして俺のためにそこまでしてくれるの? 俺がもし母さんだったら、こんなバカ息子、とっくに見捨ててるな。」
 「どうしてって、私はあなたの母親だから。あなたが元気でいてくれることが何よりもうれしいの。」
 「うーん、分からないな。」
 「あなたも親になればきっと分かるはずよ。あなたは私とお父さんの希望。困ったときはいつでも頼ってね。親はそれがうれしいんだから。」
 「母さん、その、いつもありがとう。」
高野は少し照れながら美佐に感謝の言葉を告げた。
 「うん、どういたしまして。」
そう言って美佐は優しく微笑んだ。心なしかその瞳はうるんでいるようだった。


―――

続き

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