老僧の墓穴

 人里離れた山奥に小さな寺があった。お堂はよく手入れされていたが、訪れる人がいないせいか、寂しげに佇んでいた。春を迎えた山はあちこちから生命の息吹が感じ取れた。暖かな日差しや緑に輝く草葉、木々を揺らす小さな生き物たちの営み。

 お堂の裏で穴を掘る老僧は、その一つひとつを愛おしく思っていた。しかし、生命に対する愛情もまた、悟りを妨げるしがらみに過ぎない。雑念を払った老僧は、一回また一回と地面にスコップを差しては土を掻き出していく。なぜ老僧が穴を掘るのか。それは彼がそこを死に場所と決めたからだ。

 数日かかって穴を掘り終えた。二メートルほどの深さがある穴は、中に入ると外の世界と遮断されてしまったかのような錯覚に陥る。だが、それが老僧の狙いだった。世に対する執着を断ち切るのにこれほど適した場所はない。

 老僧は穴に入った。これから死ぬと思うと、原初的な恐怖のために心が波打った。しかし、座禅を組んで座ると徐々に心が落ち着きを取り戻した。結跏趺坐と法界定印。彼は何十年と続けてその形で座り続けてきたのだ。

 色即是空。空即是色。移ろいゆく世の中には定まった形などない。しかし、形のない穴の中にあって、私は座禅を組むことができる。長いこと「空」について考え、人に説いてきた。だが、いまだに私は「空」の正体を捉えることができぬ。

 老僧は幼い頃に両親を亡くした。代わりに育ててくれた親戚は彼に深い愛情を注いだつもりだった。しかし、実の子とは微妙な違いが出てしまう。そのとき感じた「乾き」を彼は生涯潤すことができなかった。

 瞑想を始めると、最初は頭の中が雑念だらけなことに気付く。足の痺れ、物音、暑さ寒さ、空腹、眠気、悩み、孤独、不安…。煩悩を燃やす種は至るところに蒔かれている。いや、すべては内にあるものを投影したに過ぎない。

 青年時代の老僧は女の愛を求め続けた。端正な顔立ちだった彼は数多くの女性と関係を持った。刹那的な快楽に溺れているうちは乾きを忘れることができる。しかし、一夜経てば夢は終わり。癒えることない乾きはひどくなる一方だった。

 瞑想が深まると、浮かんでいた煩悩たちがシャボン玉のように弾けて消える。すると自我が溶け出すのを感じる。自分と宇宙との境界が消え、すべてが一つに混ざり合う。刹那的な快楽とは比べるべくもない喜び。だが、それも幻。

 どんな快楽でも満たされなかった老僧は自殺を考えた。身体の内で暴れくるう暴徒たちを誰が鎮めることができよう。美しい海の見える岬に立ったかの日の老僧。だが、飛べない。どうしても飛べなかった。泣きながら走った。行く宛もなく、いつとも知れず。

 快を捨て、不快を捨て、幸を捨て、不幸を捨て。すべてを退けた先に仏の説きたもう法がある。瞑想の果てに、心の水面が一切の曇りなく張りつめる。明鏡止水の境地は幾度となく経験した。だがそれも一刹那。また幾度となく煩悩は私を絡み付ける。

 いつしか老僧は仏道に入った。どんなに辛い修行も泣き言一つ言わずに耐えた。僧として出世し、多くの弟子を得た。だが、隠居後はこの山寺に移り住んだ。世を離れ、悟りを得たいと思ったからだ。それでもまだ仏の法はつかめなかった。

 残す手段はこれしかない。瞑想を続けたまま死に即身仏になること。あらゆる経典を読み、あらゆる修行をし、それでも死の先は分からない。仏になるか、無になるか。天国か、はたまた地獄か。年甲斐もなく、好奇心に胸が踊った。

 穴に入って一週間ほど経った頃だ。老僧は空腹や眠気といった欲望を半ば克服しつつあった。耳を澄ますと遠くから足音が聞こえる。徐々に足音は力強さを増し、近づいてきた。大きな生き物が穴の淵を嗅ぎ回っている。

グオオ…。

 その声に思わず瞑想を止め、見上げた。すると血走った目をした熊が穴の中を覗き込んでいた。冬眠を終えたばかりの熊は空腹で、今にも穴の中へ飛びかかってきそうな迫力があった。その時、無意識に老僧の中で二つの矛盾する考えが生じた。

 一つはこのまま熊に食べられてもいいというもの。釈迦は輪廻を繰り返す中で、空腹の虎に身を捧げて食べられたことがあった。ならば、これは究極の布施ではないか。
 もう一つは「死にたくない!」という本能の欲求。正直に言えば、こちらの方がはるかに大きかった。

 老僧は叫んだ。力の限り叫んだ。死にかけの老体のどこにそんな力があったのかと不思議になるほど大きな声だった。それでも熊はひるむまなかった。そして、穴へ入ろうと身を乗り出した。老僧はギュッと目を閉じた。その時、

ダーン!

と大きな音がした。熊が猟銃で打たれたのだ。老僧の目には熊が倒れ、穴の中へ落ちてくる様子がスロー再生で映し出された。

 次の瞬間、老僧は熊の下敷きになって潰れた。即死だった。熊は頭から血を吹き出し、まもなく死んだ。人里離れた山寺が幾度となく春を迎えるうち、その穴は跡形もなく消え去った。

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