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zoom RSS 超宗教的「真理」観

<<   作成日時 : 2014/03/15 23:16   >>

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「真理」って一体何でしょう?
僕のようなちっぽけな人間にはおそらく一生掛かっても分かりません。
でも、それを知りたいと長いこともがき、悩みながら見えてきたことを書いてみます。


僕の宗教観をザックリ言うと、

・この世界には人間より大きな存在(=真理)がいる(ある)
・「真理」の見え方は神や仏など人によって様々で、宗教間の違いは相対的なものであり、本質ではない。
・その考え方に至った理由は、既存宗教には宗教間の違いを認める寛容さが足りず、「真理」は宗教や言葉で表現できないものだから。


「この世界には人間より大きな存在がいる」と確信したエピソードを紹介します。

昨年(2013年)の1月、僕は公務員をしていました。
落ち込みがひどい時期でした。
食べ物の味が分からず、眠れないから睡眠薬を飲み、毎日「消えてしまいたい」と思っていました。

そんなとき、3連休に現実逃避の感覚で釧路に行きました。
そこで、釧路湿原の展望台に登ると…。

雄大な景色に心を打たれました。

広大なサバンナのようなまばらに草木の生える平地にところどころ雪が積もっています。
空の青と雪の白と植物の茶色。
美しいコントラストが胸の中で溶け合い、弾けました。

そのとき、頭の中に散乱していたバラバラのピースがカチッとハマって、人間の無力さ、その営みを越える大きな要素がこの世界には働いているということが感覚的に分かりました。

人間は大きな真理の一部…。


「真理」は、人によって見え方の違うものだと思います。
それは仏教徒の僕からは仏に、クリスチャンからは神に、イスラム教徒からはアッラーに見えます。
そのような違いが生ずる理由は、生まれ育った文化的背景が違うからではないでしょうか。

両親や友人、周りの大人たちの信仰、あるいはその社会の文化は個人の信仰に大きな影響を与えます。
僕が仏教徒になったのも、祖父の信仰や好きな漫画(手塚治虫の『ブッダ』『火の鳥』など)と少なからず関わりがあります。
またクリスチャンの友人に話を聞くと、両親もクリスチャンであるケースが非常に多いです。

個人がある宗教に対して信仰を得るというのは、意識・無意識を問わず、様々な宗教的影響を受ける中で、それがある一定の閾値を越えた時に起こる現象ではないでしょうか。
その閾値も個人差、あるいは個人の状態によって大きな振れ幅があります。
(宗教心のない合理主義者がいる一方で、落ち込んでいる人は信仰を得やすい)

「宗教」は万人に共通する「真理」ではありません。
(「真理」であれば、アマゾンの奥地に暮らす未開の民族が突然、仏やキリストに目覚めることもあるでしょうが、それは考えにくいですね)
だから文化の影響を受けて乱立し、流動します。
キリスト教、イスラム教、仏教の世界三大宗教だって所詮、多くの人の支持を受けた一つの思考体系に過ぎません。


では、「宗教」とは何か。

それは「真理」に至る道、あるいは道具、手段であり、目的ではないと考えています。
そして「真理」とは例えるなら山のようなもの。その頂上に輝く何か。
「宗教」は登山道。宗教間の違いはどの道でその山を登るかということ。

山の裾野は広く、各入口間は非常に隔たっています。
ある道から別の道を登ろうとする人を見ると、まるで的外れな方向へ進んでいるように見えます。
だから人は思わず他者の歩みを否定して、自分の道に引き込もうとします。

「その道は邪教。正しい方へ導いてあげましょう」

ところが別の道を歩く人だって、真摯な信仰を持っています。
それを否定されるんですから、当然気分はよくありません。
そこで某○○教と□□教のようにお互いに、あるいは内部でさえ、不毛な争いを繰り返すのです。

目指す先は同じ「真理」という山の頂きなのに、なんと愚かなことでしょう。

宗教家にとって大切なことは、他の信仰を持つ人を否定したり、導いたりすることではなく、自分のペースでその道を歩むことです。
そうしてお互いに高まり合っていけば、宗教間の距離は自ずと縮まってくるでしょう。
(信仰を持たず苦しむ人に一つの「道」を示すことはよいと思います)


宗教はなぜ生まれたのでしょうか。

歴史を紐解けば、それは往々にして腐敗し、争いの種になっています。
特に現代日本では不合理なものとして社会からはあまり歓迎されていないようです。

その答えは、人間に「真理」へ至りたいという欲求があるからです。
人間は「真理」の一部であり、そこへ還ることで、究極の安寧が得られます。

しかし、人間の能力には限りがあり、「真理」を「真理」そのものとして感得することはできません。
「真理」は人間の存在以前からあるものであり、存在以後もあり続けるものです。
であれば、人間が理解できる形(言語や像、図など)で存在しているとは到底考えられません。

そこで、「真理」を人間の土俵まで引きずり下ろすために「宗教」が生まれました。
そうして了解可能な形にしてやらないと、人間は「真理」に近づくことができないからです。

「宗教」の道具的性質は、例えるなら自転車の補助輪。
ある程度乗れるまでは必要だけど、いつか手放すもの。
おそらく一定の境地から先へ進むには、人間のご都合主義が含まれた「宗教」では力不足ではないでしょうか。


なぜ僕が、「宗教は相対的なものである」という考えに至ったかというと、既存宗教には宗教間の争いを回避する寛容さがないと感じたからです。
キリスト教とイスラム教を例にします。

キリスト教徒のAさんとイスラム教徒のBさんがいました。
2人はそれぞれ自教の神様を同じくらいの強さで信仰しています。
そして、一神教には以下の性質があります。

 ・一神教の最終目的は全世界の人々をその信徒とすることである
 ・一神教の教理は絶対である
 ・一神教同士は互いに矛盾を含む

とすれば、AさんとBさんの間では論争不可避。
それが民族や国家など、さらに大きな単位となれば戦争不可避です。
しかし、宗教の教理の中に他教との違いを認め、共存し合う仕組みは見い出せません。
これは、重大な構造的欠陥です!

「そんな欠陥品(宗教)が『真理』であってたまるか!」

というのが、僕の率直な思いです。
一方で、神や仏をひたむきに敬う人々の真摯な信仰心も否定したくない。
そこで、互いの違いを認め合える超宗教的な「真理」観として上記の考えに至りました。

この「真理」観の中では、Aさんにとってはキリスト教が、Bさんにとってはイスラム教が「真理」であり、それぞれが両立することに何ら矛盾はありません。
どちらも同じ「真理」の山を登る営みであり、本質的な違いはないのですから。


この記事を通して僕が伝えたいのは、ひたむきに自分の道を歩むことの大切さです。

人間生きていれば、数え切れないほどの悩みや問題が降りかかってきます。
周りの人間は無責任に、エゴやお節介から色々と余計なことを言ってくるでしょう。
そして心は波立ち、迷いは深まっていきます…。

そういうときにすべきは、心の根を見つめ、世界の根底に流れるものに思いを馳せることです。
そして我をなくし、大いなる「真理」と混ざり合えば、自ずと進むべき道は見えてきます。
信仰の有無に関わらず、その感覚に素直に従うことが悔いのない人生を送るコツです。

たとえ失敗しても、命さえあればいくらでもやり直しはできます。
だから、あなたはあなたのペースでその道を歩めばいい。

「真理」から来る「救い」とは、ひたむきに、真摯に生きることそのもの。
決して我がままに振舞ったり、願望が成就したりすることではないのだと、今になってようやく気付きました。

一は全で、全は一。
「真理」はそのるつぼの中に、森羅万象を溶かし込む。
そこには、「宗教」も「科学」も「常識」も「善」も「悪」もない…。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
しんり
きょうみぶかいですね
こねこ
2014/03/21 00:46
お久しぶりです!
元気にしてましたか?

「真理」は大変抽象的ですが、一生掛けて探求したいテーマです。
キップル
2014/03/21 07:58
いろいろありまして

またよろしくおねがいします
こねこ
2014/03/21 08:16
こちらこそ(^o^)
気が向いたときは見に来てください。
キップル
2014/03/21 08:22

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