ダイブ71(完)

七十からの続き


   七十一

 午後八時。ギターケースを背負った高野は駅前の広場にいた。辺りは仕事帰りのサラリーマンや飲みに行く学生たちで賑わっていた。先ほどから高野は、所在なさげにキョロキョロしながら、広場の周辺を歩き回っていた。
 (やっぱりここしかないな。)
二十分ほど迷った末、高野は植え込みの前に腰を下ろした。そこは以前、翔馬が歌っていた場所だ。ケースからギターを取り出し、譜面台を広げ、楽譜をセットする。ギターを構えて立った高野。押し寄せる人の波。突き刺さる視線。通りすがりの人々が皆、高野を冷たく一瞥しては過ぎていった。子供連れの家族しかいない公園と違って夜の街を歩く人々からは殺気にも似たプレッシャーを感じる。
 (怖くて演奏できない。)
高野は、今ここにいる自分を最高に場違いだと思った。
 (俺、ギターも歌もあまり上手じゃないしな。)
 (変な人だって思われないかな?)
 (今日はここに立っただけで十分な進歩だよ。また今度頑張ればいい。)
 (ああ、もう帰りたい!)
頭の中が後ろ向きな言葉で破裂しそうになった時、高野は堂々と自分の思いを歌い上げていた翔馬のことを思い出した。周りに人がいようがいまいが、翔馬はいつも胸を張って真剣だった。
 「失敗したっていい」。高野は自分に向けてつぶやいた。(失うものなんかなにもない)。大きく深呼吸をして、もう一度辺りを見渡すと、少しずつ落ち着いてきた。ポケットからピックを取り出して握り、覚悟を決めた高野は歌い出した。自作曲。その名は『ダイブ』。
 (この一曲が終わったら、死んでもいい!)
渾身の思いを歌に込めた。一言一句、丁寧かつ大胆に。頭の中を真っ白にするんだ!

 高野はヘドロの海から顔を出した。海上は新鮮な空気と暖かな光に満ちていた。高野は全身の細胞一つひとつで、生の喜びを感じた。感情が高ぶり、狼のように雄叫びを上げたい気分だった。頬にあたる風、世界を照らすまばゆい光、ゆりかごに似た波のリズム、空と海のコントラスト、遠くに見える街の景色…。この場所は前と何も変わらないのに、受ける印象がまるで違う。生まれたばかりの赤ん坊が見る世界は、こんな風に色鮮やかで新鮮なのだろうか。

 結局のところ、未解決の問題はたくさんある。将来のこと、社会のこと、千佳子のこと。どれも大きな問題で簡単に答えは出ないし、これからもしばらく悩み続けるのだろう。その姿は無様でかっこ悪く、時に人を傷つけてしまうかもしれない。でも、そのままの姿で生きたっていいじゃないか。ひたむきに生きる人間を非難する権利は誰にも与えられていないんだ。つまり、僕は僕のままで、君は君のままで生きればいい。無理して他の誰かになる必要なんかどこにもない。
 「ありがとうございました!」
一曲歌い終えた高野は、広場中に響き渡る声でお礼を述べた。足を止めて聞いている人はいなかったが、なぜだか無性に感謝したくなった。そのとき、通行人の若い女性に笑顔で会釈された。高野は、「この世界もまだまだ捨てたもんじゃないな」と思った。


   完

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